
第一回 魚町2丁目(旧鳥町3丁目)
兵庫屋(小倉商工会館−魚町2-6-1 旧「兵庫屋」→「小倉商工会議所」のお話)
もともと表通りの魚町(丸源のあった処)に兵庫屋(小倉支店)呉服店が、大正5年、赤煉瓦づくりの斬新なデザインの洋館建を建てたもの。経営者は中津商人、兵庫屋本店の井上寿吉氏。アメリカ屋の設計(のち「かねやす」百貨店も同じ)で、建築費用は8万円で、小倉名物となり、遠方から弁当持ちで見物客が押し寄せた。
一階は化粧品、洋服雑貨、運道具売り場。
二階は呉服売場。三階は貴金属、絹製品売場と食堂。
一階入口に、下駄など履物をあずけ(下足箱)、畳式のじゅうたんの上を歩いて、商品をみてまわる。
小倉出身の芥川賞作家、松本清張の父君が大正9年、この兵庫屋で、下足番として働いていた 。
『半生の記』に、「父はいろいろと仕事を探していたが、すでに四十を越しているような身には思うような仕事もなかった。近くに兵庫屋という百貨店まがいの店があってそこの下足番に雇われたりなどしていた。百貨店といっても、その頃は客が下駄をぬいで畳のある売り場にあがったものだった」と書かれ、別の小説『骨董の風景』には「兵庫屋はのちに小倉商工会議所になったほどの五階建ての堂々とした赤煉瓦館だった。年の暮れの寒い日に私がその兵庫屋をのぞきに行ってみると、峯太郎は入口の土間で、店名を染め抜いた紺の法被と股引で下足番仲間といっしょに働いていた。兵庫屋の売場は畳であった。土間から売場にかけて小旗がはりめぐらされていた。」と書いている。
当時、百貨店としては 、九州で鹿児島の山形屋につい2番目であったが、兵庫屋は、大正13年に閉店した。
営業不振は商品構成や販売技術も問題があったが、経営者、井上寿吉氏の死去(大正6年6月6日・59才) にともなう夫人静子さんと首脳部との人間関係とも、職員の使い込みにより大穴をあけたことによるともいう。
大正14年、小倉商工会議所(会頭、丸橋清平氏)にわずか3万4千円で買収された。
丸橋氏の息女、静子さんは俳人として有名な杉田久女の弟子で、俳人として活躍された。
小倉商工会議所は、今の室町「はせがわ仏具店」前に、美容室のあった常盤橋川畔にあった。
明治39年「小倉商工会」が設立され、商工会議所となり、小倉名物の「えびす市」は、この頃からともに続いたものである。
この小倉商工会議所も、北九州五市が昭和38年に合併、小倉商工会館として、昭和40年11月落成した。
当時、井筒屋百貨店の菊池安右衛門社長、緑屋(東映会館)島田千寿社長、有田屋、野中社長が発起人総代として、工費1億2千7百万円で小倉商工会館にかわった。
「兵庫屋」が建つまでは、鳥町は魚町の裏通りの感じで、お医者さん、醤油屋、卵屋、風呂屋、宿屋などのある閑静な通りであったという。
近くの古船場の「天神さん」のお祭りのとき以外人通りもまれな通りであった。
■現在の魚町2丁目『小倉商工会館』付近の様子
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10時00分 - 13時30分




